#01 夢も希望もない!? 爆発メルヘンCity・川村真純さんの「いまこの瞬間」を積み重ねてきたクリエイター精神とは
2026.01.30
シクロ代表取締役の山﨑と、山﨑が話してみたい、いろいろな分野で活躍している人を呼んで対談するシリーズ。イベント制作や舞台設営、プロジェクトの進行サポート、アクセサリーの制作など多岐に渡る活動をおこなう川村真純さん。今回の対談相手は「爆発メルヘンCity」「ヅカデン」「MOJOme.」など、数々の屋号を掛け持ちし精力的にアウトプットを重ね、阪神北摂エリアを代表するプレイヤーのひとりですが、自分自身は「夢も希望もない」そうで……。 バラエティに富みすぎてキャラがイマイチ掴みきれない!? そんな川村さんのバックボーンや普段考えていることについて聞いてみました。

川村 真純 氏
兵庫県淡路市出身。京都嵯峨芸術短期大学部((現:嵯峨美術短期大学))卒業。在学中からアート・音楽・ファッション等に触れる。 2004年から外資系ブランド企業での勤務を数社経験し、2011年よりアクセサリーブランド「MOJOme.」をスタート。 2018年より音楽・マーケットイベントの「爆発メルヘンCity」を主宰。同時期にインタラクティブ電子工作グループ「ヅカデン」も始動。現在は兵庫県宝塚市を拠点に、屋号多め女子として活動中。
Instagram:
爆発メルヘンCity
ヅカデン
MOJOme.
masumix

山﨑 昌宣
株式会社シクロ代表取締役 / シクロホールディングス株式会社会長
Derailleur Brew Works代表
大阪府大阪市出身2008年大阪市内で介護医療サービスの会社「株式会社シクロ」を発足。2018年からは趣味が高じてクラフトビール「Derailleur Brew Works」の醸造を開始する。自転車競技の実業団にも所属するロードバイク好き。異業種の出会いこそが自らが強く&面白くなれる道と信じていて、人との繋がりを大事にしている。口癖はネクストとステイチューン。
「何している人」と決めたくないからこそ、いろんな場所でいろんな立場で制作をする
おふたりは株式会社シクロが手がける「坂ノ上音楽音楽祭」での出会いと聞きました。



川村 そうですね。私が「爆発メルヘンCity」という屋号でやっている取り組みがあるんですけど。フェスやライブ、マーケットなどのイベントでのゲストブッキングだとか、デザイン制作まわりのサポートをしてまして。
山﨑 坂ノ上音楽祭ではアーティストのブッキングでお力を添えてもらったんですよね。「爆発メルヘンCity」としてイベントサポートをされてる川村さんの姿は知ってるんですけど、それ以外にも川村さんっていろいろやってはるじゃないですか。僕、川村さんがどういう人なのかっていうのが今ひとつ掴みきれないままなので。
川村 わはは!
山﨑 ネットで川村さんを調べても本業がなにかわからへんなって。めっちゃええアーティストさんとか個人の飲食店とつながってて、イベントをつくってくれるキュレーターのようでもあるけど、ご夫婦でも別のユニットを組まれてるし、川村さん個人のブランドも持ったはるようやし……。
川村 そうなんですよね。私よく「屋号多め女子」って言ってたりするんですけど。
山﨑 屋号多め女子。
川村 ひとつは「爆発メルヘンCity」としてイベントの制作に関わる仕事、「ヅカデン(宝塚電子倶楽部)」として、ネオン看板や光るオブジェをつくったり、ミュージックビデオの撮影のお手伝いしたりする仕事もあって。これは夫と共同でやっているやつですね。


山﨑 うんうん。
川村 「MOJOme.」というアクセサリーブランドも持っています。これが個人のブランドですね。なので、ヅカデンとしてフェスのステージの装飾もしつつ、MOJOme.としてそのフェスでアクセサリーを売るってこともありますね。
山﨑 主催側と参加者を同時にやることもあるんですね。
川村 あといまお話ししてるこの場所「AHSO」はヅカデンやMOJOme.の作業場兼ギャラリーでもあるし、多目的スペースって感じで。もともと「シチニア食堂(※1)」っていう飲食店が入ってた物件なんですけど、参道のほうに移転されるにあたって私がこの場所を使わせてもらってます。
山﨑 そうそう、川村さんっていま言わはった屋号のある取り組みだけじゃなくて、清荒神もしくは宝塚……もっというたら阪神エリアのプレイヤーのひとりでもあるじゃないですか。
川村 多分ですけど、私、決めたくないんでしょうね、明確に「何してる人」っていうのは。
山﨑 いまやっている仕事で言えば、どういうものが多いんですか?
川村 おもしろいお話をいただけるのは、爆発メルヘンCityやヅカデンという屋号に関わらず、イベントの企画制作に関わるものですかね。坂ノ上音楽祭もそうですけど「気持ちのいい芝生と、おいしいクラフトビールがあるこういう空間のなかで楽しむには、どんなアーティストさんがいいと思う?」っていう問いに答えるとか。こういう人どうですか、こういう舞台装置はどうですかっていうのを提案してお手伝いすることが楽しいし、いまの仕事としてのウエイトは割合が多い気がします。
山﨑 縁の下の力持ち的な。
川村 どっちも縁の下の力持ち的要素は共通してるとはいえ、がっつりフロントに立ってものづくりする時もあれば、完全に裏方での制作っていう時もあるんですよね。「何してる人」っていうのがないぶん、その時々でいただくお話のなかで、「自分ができることでぜひやらしてほしいな」と思ったところにいろいろ関わらせてもらってます。
山﨑 川村さんが関わる仕事って、ジャンルというか系統が多岐に渡るじゃないですか。「ぜひやらしてほしい」って何をきっかけに思うんですか。
川村 でもやっぱり根底にあるのは音楽、芸術といったアートの要素があるかどうか。あんまり「カルチャー」って言葉は使いたくないんですけど、そういうアートカルチャー的な要素を持った制作ができるのか否かで考えてるっていうのは、1本、軸として通ってるのかなとは思ってます。
※1 シチニア食堂
宝塚市の清荒神参道にある人気店。地元の旬野菜を主役にした、独創的で彩り豊かな料理が楽しめる。
イベントの企画やイベントへの出店への参加も行っている。
https://sicinia.com

「こんなとこ出ていく!」反対を押し切って淡路島の進学校から芸術系へ
学生時代はどんな人でしたか。
山﨑 川村さんって芸術系の学校でしたよね。何系の専攻だったんですか?
川村 京都の嵐山のほうにある、京都嵯峨芸術短期大学部((現:嵯峨美術短期大学))卒業。のデザイン学部に行ってました。当時はまだアナログが主体でしたけど、制作の界隈でmacが出回りはじめた頃で。ただ地元の淡路島にはmacどころかそもそもパソコンが全然ない。実際に触って学んでみたくて。それで、グラフィックデザインコースに行けばいいんや!って。
山﨑 へえ〜、淡路島の出身やったんですね。
川村 のどかなイメージの淡路島ですけど、私の通ってた高校がそれこそ軍隊みたいに厳しい高校やったんですよ。体育の時には、頭に鉢巻を巻かないとあかんような。いわゆる進学校やったんで「芸術系に行きたい」って言っても「ダメです」って、話もしてくれへんくて。私は、なんで制服の着方から進路から、何から何まで先生が決めて、統率されなあかんねん!って疑問やったし、納得いかずに食いかかる高校生でしたね。
山﨑 先生に反抗して……っていうのは川村さんくらいやったんですか。
川村 ちょっとヤンキーというか、やんちゃな子はいましたね。ガチガチの進学校だったので、4年制大学に行かないやつ以外はみんなダメ、って感じで。高校3年生の時は、短大、芸大、専門学校、あと就職組をまとめてひとまとめにした、通称「アホクラス」に組み分けられたんです。ただ、私、現代文がめっちゃ得意で、学年で1番か2番目くらいやったんですよ。
山﨑 すごいですね。アホクラスで進学組を差し置いて成績いいと「なんであいつが」ってなりそうではあるけど……。
川村 そうですよね。アホクラスのくせに現代文だけはトップで、先生としては複雑やったやろうし、昔から疑問に思ったことはすぐ聞いちゃうんですよね。「スカートは短くしたらあかん」って先生に言われて、「スカートを短くしたらダメな理由ってあるんですか? それが本当にあるなら教えて欲しいです」ってぐいぐい聞きにいくような、ちょっとめんどくさい生徒だったと思います。
山﨑 高校生って先生が「こうや」って言ったら、多少納得いかなくても従いがちですけど、川村さんは違ったんですね。

川村 っていうのも、ものすごい理不尽なこともたくさんあったんですよ。急にある日先生から呼び出されて「お前、昨日駅前のサティにおったやろ。授業サボったらしいな」って怒られたんですけど、私、学校から徒歩1分くらいのところに住んでたから、徒歩20分くらいかかるような、わざわざそんな遠いところ行かないんです。なのに最初から私だって決めつけられてた。
山﨑 うんうん。
川村 違うって言っても信用してもらえなくて。実際は学年の進学組のなかで、ちょっと賢い子がサボってたんですよ。背格好が似てるだけで理不尽に詰められて、謝られもしなくて。それで「こんな学校も淡路島も抜け出してやるぜ!」って。そういう気持ちで芸大に進学しましたね。いま思えば、幼かったなとは思いますが。

「人生で一番働きました」いまの仕事につながる20代の仕事あれこれ
大学に進学してから、川村さんはどんな変遷を辿ってきたんでしょう。
川村 グラフィックデザインを勉強しつつも、クラスメイトや先生とのいろんなやり取りのなかで「私はもうグラフィックデザインで食べていくことはないな」っていうのを在学中に思ったんですよ。好きだけど仕事にはできないなって。
山﨑 理不尽な高校から離れて、望んで進学したわけですけど「食っていくことはないな」って思ったのはなんでやったんですか。
川村 自分がつくりたいものをつくりました。先生に提出しました。で、講評のときに先生に「これはここがダメ」って言われました。そういうことが何度もあって。「何がダメかを教えてほしいです」って聞くんですけど、何が本当にダメなのか、批評の理由が納得いかなくて。
山﨑 それって、いま思えばになりますけど、先生の批評って、適格やったんですか。
川村 グラフィックデザイナーとして世に出ていくのであれば、ユーザーにとってもっとわかりやすい方がいいとか、そういうことを指摘してくれていたんですよね。当時の私の作品は、詰め込みすぎてるというか、コラージュしすぎちゃってる感はあったので。
山﨑 そうか。商業デザイナーとしての意見としては正しかったんですね。
川村 だと思います。でも当時の私は先生のおっしゃってる意味が本当にわからなくて。周りは自分よりもっとデザインというものを理解して、デッサン力もある実力のある人たちばかりのなか、「つくりたいものをつくれなくてNOって言われてしまう世界で、私はお金をもらうことができないかも」って思っちゃったんですよね。しかもそれを1回生の早めに思い至ってしまって。
山﨑 早いですね(笑)。

川村 グラフィックデザインはものを説明したり、魅力を伝えたりするためにあるので、いま思えば、これも本当に自分が幼かったって話なんですが。うん、納得できないことがあると納得いく答えを聞くんですけど、それでもダメだとスッと引いてしまう。諦めが早いのかもしれないです。
山﨑 そこからはどうしてたんですか?学生はまだまだ続くわけやし……。
川村 それで、自分は何が興味あるのかを考えながらたまたま大阪の堀江を歩いていた時に、digmeout CAFE(※2)でMAYA MAXX(※3)さんってイラストレーターの方がライブペインティングをされてて。digmeout CAFEってあれです、FM802(※4)と洋服屋SPINNS(※5)が共同出資だっけな。その2社がやってたカフェです。若手のアーティストが展示もよくしていた。
山﨑 うわー!digmeout CAFE、懐かしい!ありましたねえ。
川村 MAYA MAXXさんも亡くなられてますし、FM802のなかでアートエージェンシーとしてのdigmeoutはいまもあるけど、digmeout CAFEもだいぶ昔に閉店してますもんね。で、カフェの店先に「アルバイト募集」って書いてたんで、すぐ履歴書書いて出しに行きました。
山﨑 あ、じゃあ完全にデザインとか芸術の分野から離れることなく、アルバイトとかのなかで関わってはきたんですね。ほんで、やっぱり川村さん「これやりたい」って思った時の行動がめちゃくちゃ早いですよね。
※2 digmeout CAFE
FM802のアートプロジェクトが手掛けたカフェ。若手作家の登龍門であり、文化発信の先駆け。
digmeoutのプロジェクトはアート、イラストレーション 、デザイン等をプロデュースするアートエージェンシーとして継続中。
https://digmeout.net
※3 MAYA MAXX
絵画、絵本、ライブペイントなど多岐にわたり活動。多彩な活動で知られるアーティスト。
https://www.instagram.com/mayamaxxr/
※4 FM802
大阪を拠点に関西で放送されるラジオ局。独自の選曲基準とイベントの展開を通じ、関西のユースカルチャーと深く関わり続けている。
https://funky802.com
※5 SPINNS
「ATTITUDE MAKES STYLE!」をコンセプトに、時代のトレンドと独自の主張をミックスしたスタイルを提案するアパレルブランド。
https://www.spinns.com

川村 あはは、そうなんですよね。グラフィックデザイナーになるのは諦めたけど、学生時代はdigmeout CAFEみたいに、興味を持った芸術の場で働いたり、足を運ぶようになりました。Macを勉強しながらお金を稼げるバイトをしたくて、Appleのコールセンターのバイトなんかもしました。当時はセンターが阿波座にあって。その当時ってまだiPhoneはなくて、iPodがドカーンと流行りはじめたくらいの時期でしたね。
山﨑 あの頃はAppleユーザーというと、ギークというか、まだまだコアな人が多かったですよね。
川村 私は時給重視で応募したとはいえ、プロダクトのデザインなんかには興味あって。当時のコールセンターはギーク組とそうでない人に分かれていて、私たちは後者のほう。休憩室でよく喋ってたのがイノウエ(※6)さん、ウエちゃんなんですよ。
山﨑 あ、そうか! イノウエリョウくんとも知り合いなんですよね?
川村 そうなんです。だから前に山﨑さんと対談されてたのを見てびっくりしました。つながるんやなあ〜って。
※6 イノウエリョウ
週末サイクリスト。本コーナーの対談にも以前登場。
https://cyclo-inc.jp/magazine/ontheroad/ontheroad0201/

山﨑 デザイナーズカフェで働いて、コールセンターでも働いて。
川村 20代から30代初頭にかけては、人生で一番働いたかもしれないです。Appleのあとは宝飾ブランドでも働きました。カルティエ。
山﨑 カルティエ!また全然違うジャンルに。それは販売ですか?
川村 いえ、いわゆる裏方です。当時のカルティエって、お客様もスタッフもお姉様方の世代が多くて。デジタルツールが不得意な方もたくさんいたんですよね。
山﨑 まだまだアナログでしたもんね。っていうか、20年前のネットって全然いまと比べ物にならないくらい脆弱でしたよね。
川村 当時カルティエに入った時は私が一番下っ端で年下でした。声をかけてもらった理由としては、デジタルをもっと普及させたいってことと、データを集めて戦略を立てるというか。Aさんはカバンを売るのがすごい上手で、Bさんはウエディングがものすごく売り上げがいいとか、販売員の個性をデータで全部出しておくんです。で、次の新作のバッグが出る時にはAさんと百貨店の外商さんが連携して、バッグをいくつ確保しておこうとか、次のウエディングのコレクションの時は、Bさんがこういうものを用意しておこうとか。
山﨑 なるほど、販売員さんの肌勘でやってたみたいなところを、データに落とし込んで。
川村 そうですそうです。全体オペレーションの効率アップとかにつながるようなことをしてましたね。当時はマクロも組んでたんですけど、もうさすがに組めないです(笑)。
山﨑 川村さんはご自分でアクセサリーブランドを立ち上げますけど、カルティエで働いたのはそういう未来を予測してだったんですか?
川村 いやいや、もう全然。当時は私はただの芸大の短大卒でしかなくて。その、軍隊みたいな高校の先生が言ってたんですよ「四年制大学に行かないと、お金稼がれへんぞ」って。グラフィックを学びつつもグラフィックデザイナーにはなれなかった自分がいたり、いろんな理由がありつつ「こんな私はどれくらいお金を稼げるんでしょうか」っていう思いがあって。とにかくいろんなキャリアを積みたがってガムシャラに働いてた20代でしたね。
山﨑 馬車馬のように働きつつも、縁の下の力持ちで結果残してるっていうか。川村さんの興味関心や持ってる能力でいろんな場所や人のサポートをするっていうのは、いま川村さんが自分でやってる仕事につながる気がしますね。
川村 あ〜、そうかもしれないです。
Interview & Text by ヒラヤマヤスコ
Photography by 福家信哉

