#01 もっとおしゃれで楽しくていい。医療×デザイン×アートがもたらす新しい病院の可能性
2024.09.18
シクロ代表取締役の山﨑と、いろいろな分野で活躍している山﨑が話してみたい人を呼んで対談するシリーズ。今回の対談相手は、神奈川県は横須賀市と葉山町にまたがる湘南国際村にある「内田宙司整形外科院長」の院長・内田宙司さん。自然あふれる山のなかにあり、スタイリッシュな医院にはさまざまなアーティストの作品が展示されるなど個性豊かな内田宙司整形外科。独自でデザインを学び、医療とアートをつなぐなど新しい活動を広げる内田先生と、新しい医療現場のあり方について話しあいました。
PROFILE
内田 宙司 氏
内田宙司整形外科/院長
東京都大田区出身。聖マリアンナ医科大学を卒業後、横須賀市の津久井浜整形外科で副院長として勤務。2020年に葉山町と横須賀市にまたがる湘南国際村に「内田宙司整形外科」を開院。アーティストによる新しい医療器具を提案する「Supporter Exhibition」の企画など、既存の整形外科のイメージを脱却する、楽しくてオシャレな医療の現場を提案し続けている。
HP : 内田宙司整形外科
山﨑 昌宣
株式会社シクロ代表取締役 / シクロホールディングス株式会社会長
Derailleur Brew Works代表
大阪府大阪市出身2008年大阪市内で介護医療サービスの会社「株式会社シクロ」を発足。2018年からは趣味が高じてクラフトビール「Derailleur Brew Works」の醸造を開始する。自転車競技の実業団にも所属するロードバイク好き。異業種の出会いこそが自らが強く&面白くなれる道と信じていて、人との繋がりを大事にしている。口癖はネクストとステイチューン。
HP : Derailleur Brew Works
病院なのにギャラリーが併設?医者なのにデザインもできる?
病院だとは思えないようなスタイリッシュな空間にびっくりです!
山﨑 以前にマガジンハウスのWebメディアで内田先生のご自宅を紹介する記事を拝見したんですよ。海が一望できるスタイリッシュなお家で、あといろんなアーティストの作品が飾ってあったり、スターウォーズやマーベルシリーズのフィギュアがいっぱい並んだアトリエがあったりして、記憶に残ってたんです。さらに最近、BRUTUSのWebメディアにも、愛車紹介が掲載されましたよね。
内田 そうですね。今年……2024年の6月くらいかな。
山﨑 「あ、あの先生や!」って思ったんですよね。医院の写真も見て、すごいおもしろいことをカッコよくやってはるなあって。僕が介護や福祉に携わる仕事をしているぶん、整形外科の先生と知り合う機会も多いんですけど、あんまり内田先生のような先生とお会いしたことってなかったんですよ。それで、ぜひお話してみたいなあって思いまして。
内田 ありがとうございます。
山﨑 おじゃまして改めて感じますけど、めちゃくちゃステキな空間ですね!ギャラリーに来たみたいやなあ。
内田 エントランスのネオンが神山隆二さんのもの、ぬいぐるみは森川まどかさんという作家が手がける「Peloqoon」。ヒップホップアーティストでもあるかせきさいだぁさんの油絵もあります。
山﨑 作品観ているだけでも、待ち時間が楽しくなりますね〜。
内田 鹿の頭のオブジェや切り株型のスツールは「GELCHOP」という3D造形の作家グループの作品です。
山﨑 作品のラインナップもそうですけど、建物自体もこだわられてますよね。
内田 そうですね。医院の設計は、建築家の榊田倫之さんにお願いしました。榊田さんは現代美術作家の杉本博司さんと「新素材研究所」っていう設計事務所をやっている建築家ですね。古い友人で、自宅の設計も依頼しました。その流れで、病院も建てて欲しいと考えました。
山﨑 「こういう空間をつくりたいなあ」っていうのは、先生ご自身が考えられてるんですか?
内田 医療の道に進んでから、独学でずっとグラフィックデザインを学んできたっていうのもあって。デザインの力が加わるといろんなものが変わるっていう実体験があるので、空間づくりはこだわってはいますね。
山﨑 グラフィックデザインができる医者ってあんまりいないですよね。気になるなあ〜。医院としては広々してますけど、内田先生おひとりでされてるんですか?
内田 理学療法士さんには勤務してもらってますけど、医者は僕ひとりですね。あっちの診察室行って、こっちの処置室行って〜っと日々走り回ってます(笑)。
山﨑 あ、すごいですねこのフィギュアの数!スターウォーズと……ガンダムもありますね。
内田 僕、アポロ11号が地球に戻ってきた日に生まれたんです。それで、宇宙の宙という字を名前につけてもらったんですよ。おかげさまでしっかりSF好きに育って、ちょっとお金を稼げるようになったらフィギュアを買い漁るようになりました。
山﨑 (笑)。診療室にフィギュアを並べてるのは、先生ご自身が楽しむんですか?
内田 僕自身、見て癒されてるんですけど、緊張してやってくる子どもの患者さんなんかに、ちらっと棚の中を見せてあげると喜んで、リラックスしてくれるってことがありますね。隠し扉をつくって、こっそりモデルガンなんかも仕込んであります。
山﨑 おお〜、少年の夢を詰め込んだおもちゃ箱みたいですね。病院っていうと怖いイメージなので、こういうのがあるのはいいなあ。
内田 僕が子どもの頃にお世話になった先生が、親に内緒で院長室に入れてくれてモデルガンを自慢げに見せてくるような人だったんですよ。整形外科って痛みをともなってやってくる人が多いので、緊張をほぐせるような仕掛けがあるといいなあっていうのは、僕自身の体験もあって意識してますね。
山﨑 デザインを先生ご自身がされていたり、SF好きだったり、医師のキャラが見えると安心できたり……ここの場所は先生の体験や経験がものすごく反映されてるんですね。
閑静な立地で個性も詰めた医院は、実力があるからこそ開けた
こういう空間の医院を開業しようと思ったきっかけはなんだったんでしょうか。
山﨑 この湘南国際村(※1)って、ものすごく閑静な場所じゃないですか。住宅も少ないというか……。やっぱり、こういうところで開業したいっていうのはあったんですか?
内田 そうですね。僕、開業前に働いてた整形外科で、めちゃくちゃ患者さん見てたんですよ。
山﨑 めちゃくちゃですか。
内田 その前職の整形外科が「年中無休」を謳う病院だったんです。さすがにそれはひとりじゃできないので、僕が引き抜かれたんですよね。もともと僕は学会発表とかに興味のないタイプで、ずっと現場に立ってたい人間だったので。で、前職の医院には17年くらいいたんですけど、やっぱり20年近くやってると、方向性の違いなんかも見えてきて……。
山﨑 その、引き抜いた先生とのね。
内田 尊敬する先輩ですし、それはいまも変わらないんですけどね。ありがたいことに、僕の勤務日はものすごく混んだんです。朝から晩まで患者さんが僕の診療を待っていて、ちょっと余裕がないというか、症状を緩和させるために来たのに、待ってるあいだに疲れちゃうって方もいて。それで、空間的に余裕があって、待ち時間も苦じゃないような病院をつくりたいなあって思ったことがきっかけですね。
山﨑 でも整形外科を開業するって、よくあるのは駅前の一等地とか、大きい商業ビルとか、そういうイメージがありますよね。
内田 そうなんですよ。銀行さんなんかが持ってくる案もまさにそんなんで。「ここに5階建のマンションを建てて、1階と2階を医院にして〜」とか「先生だったらぜったい繁盛しますよ!融資は任せてくださいなんて(笑)。
山﨑 そういうのが嫌で独立しようと思ったのに。
内田 そういうのじゃねえんだよな〜ってモヤモヤしながら車を走らせてた時に見つけたのがこの土地だったんです。ここでやりたいって言い出したら、あんなに「いけますよ!」って言ってた融資の話が鈍りまくって……。
※1 湘南国際村
神奈川県横須賀市と三浦郡葉山町にまたがる横須賀市の地名。「歴史と文化の香り高い21世紀の緑陰滞在型の国際交流拠点」として、平成6年に開村。
山﨑 (笑)。
内田 融資担当は「先生、ここだったら多くても患者さんは1日60人くらいです。ペイできませんよ」って言うんですよ。「60ってさ、俺を誰だと思ってんの」って正直思ったりもして(笑)。
山﨑 あっはっは!
内田 「内田先生のいる日に」って来てくれた患者さんを1日300人は診てるんだけどな!?って。そりゃあ繁華街とはほど遠い立地ですけど、やっぱりある程度はやっていける自信はあったんですよね。むしろ自信がないと、この土地でこういうスタイルの医院はやっていけないと思いますね。
山﨑 内田先生が積み重ねてきた力があってこそ、こういう個性的な整形外科ができるってことなんですね。下世話な質問ですし、あんまり病院に対してこう言うのはアレですけど、経営は順調ですか。
内田 そうですね〜、プランナーさんの想定した2.5〜3倍くらいの患者さんには来てもらってます。以前に診察していた方が「内田先生、独立したって聞いて」って来てくれることもよくあります。もっと患者数を増やそうと思えばできるんですけど、そうなると余裕を持って患者さんと向き合う時間がどうしても少なくなるので、そのあたりの塩梅は難しいところではあるんですけどね。
ブラックジャックに憧れて医療の道へ。学費が払えない苦学生時代も
先生が整形外科医を志したきっかけはなんだったんですか。
山﨑 整形外科が先だったんですか、それとも医療の道に進むことが先だったんですか。
内田 「医者になりたい」が先でしたね。契機はブラックジャックですね。もう間違いなくブラックジャックなんですよ。
山﨑 手塚治虫先生の。
内田 僕、小学校2年生の時に急性糸球体腎炎っていうのを患いまして。心不全と腎不全を併発して、もう本当に死にかけたんですよ。その入院中に愛読してたのがマンガの『ブラックジャック』だったんです。「心の師」っていうんですか、それはいまでもブラックジャックですね。
山﨑 へええ。
内田 あと、いいお医者さんに出会えたのも大きかったですね。6歳とか7歳くらいの年齢で、何ヶ月も入院してるのってすごく辛いんですよね。泣きながら公衆電話でお母さんに電話するような毎日のなかで、担当してくれた小泉先生って方がすごくいい先生だったんです。子供時代にこっそりモデルガンを見せてくれた先生のことも大好きだった。僕には良いお手本という存在があった。
山﨑 幼少期の体験が先生を医療の道に引っ張ったんですね。でも、子どもの頃の夢を叶える人ってそんなにいない。いざ医者になるとなると、実際ものすごく難しいじゃないですか。別の夢に行くとかしなかったんですか。
内田 それはね……やりかけた時期は正直ありました。中学・高校とずっとテニスをしてたのもあって、テニススクールでコーチのアルバイトをしてたんです。ちょっとテニスのコーチを夢見たこともあったんですけど、父親から「お前のセンスじゃ大して稼げないから勉強しろ」ってピシャッと……(笑)。
山﨑 (笑)。
内田 ただ、物理的に危なかった時期はありましたね。父は放射線技師として診療所の経営をしてたんですけど、僕が大学3年生くらいの時に大倒産をしまして。
山﨑 えーっ!
内田 うちの建物も差し抑えられて、家もなくなっちゃったから安い団地に引っ越して。生活が変わっちゃったストレスで成績がめちゃくちゃ下がっちゃって。でもお金はないから留年なんてできないし、事情を知ってる先生も「気持ちはわかるけど、なんとかあと2年踏ん張って卒業しろ」って。
山﨑 そんな苦学生だった時代があったんですね!
内田 「4年も医大通ったのに、途中で辞めてプータローにはなれないだろ」って諭されて(笑)。いまはわかんないけど、当時は医大生でアルバイトしてる奴なんていないんですよ。卒業旅行にも行かず、テニスと家庭教師のアルバイトを掛け持ちして、奨学金も借りてなんとか卒業しましたね。
山﨑 医大生が専門分野を定める時に、将来的に独立しやすいとか、稼ぎやすいとかそういう決め方もあるわけじゃないですか。苦学生の時代があったならなおさら。内田先生が整形外科に定めたのは、なにかバシッと決めた思いがあったからなんですか?
内田 学生時代に、スキーで左膝の前十字靭帯を断裂しちゃったんですよ。その時に、医大なので学内の整形外科にお世話になったんですよね。で、いざ僕が科を選択する時になって先輩が「お前、手術してやっただろ〜!」って(笑)。
山﨑 めちゃくちゃ体育会のノリじゃないですか!そんなんで科って定めていいんですか!
内田 昔の医大って、今とは比べ物にならないくらい体育会系だったんですよね。まあ、もし僕が外科医の息子だったら外科医に進む確率が高いんですけど、僕は医者の家系というわけではなかったので。独立しやすいとか、点数が低いとか高いとか、そういうのはわからずに進みましたね〜。
山﨑 ただなんにしても「誰かに救ってもらった」っていう経験が先生の根っこにはあるんですね。
Interview & Text by ヒラヤマヤスコ
Photography by 福家信哉