生まれた年代が同じだからこそ、お互いの違いがおもしろい!?
70年代生まれ同士のゆるゆるトーク

2022.10.31

部署や職種によっても異なりますが、シクロの平均年齢は37.5歳。今回は「70年代生まれ」にフォーカスして、同世代の社員ふたりによるトーク。世代ならではの懐かしいエピソードや、若い頃の苦労話、若い人との関わり方などについて語ってもらいました。

PROFILE

藤田 昌弘さん

シクロケアプランセンター
大阪府守口市出身。2019年入社。1972年生まれ。30代から介護職に入り、さまざまな事業所での経験を経て、現在はケアマネージャーとしてシクロケアプランに所属し、居宅介護支援の管理をおこなっている。

塩﨑 格さん

就労継続支援 B型事業所 ディレイラ
大阪府大阪市出身。2022年入社。1970年生まれ。店舗什器の会社、染色工場の勤務を経て、ビアフェスで「西成ライオットエール」に出会ったことをきっかけに入社。B型ディレイラ/工場勤務の社員として、ビールづくりに携わっている。
ジン蒸留所の立ち上げに東奔西走。

お互いの仕事について

藤田さん 「70年代生まれ」という枠で呼ばれましたが、お互い会うのははじめてなんですよね。

塩﨑さん そうなんですよね。よろしくお願いします。藤田さんは「シクロケアプラン」の所属なんですよね。

藤田さん そうです。名前の通り「利用者さんのケアに関するプランニングをする立場」の仕事ですね。いま利用者さんは600人くらいいらっしゃるんですが、15人くらいのケアプラン担当者が、利用者さんそれぞれの必要な事柄に応じた介護計画を立ててヘルパーさんや看護師さんにお願いしている感じですね。障がい者手帳を持っている高齢者の方もいるので、就労支援の方とも関わりはありますね。塩﨑さんは就労支援のB型ディレイラですもんね。

塩﨑さん そうですね。おもに「Derailleur Brew Works」の製造に関わる就労支援の部署です。ビールのラベルを貼ったり、期限切れのビールを整理したり、出荷準備など利用者の方にはしてもらっていますね。藤田さんはうちのビールって飲んでますか?

藤田さん 飲んでますよ!自社製品なのでやっぱりチェックしておかないとなあって。フルーティーなものが多いですよね。

シクロに入社したきっかけとその魅力

塩﨑さん わたしはビールがきっかけですね。前職の時代に、クラフトビールのフェスに行く機会があって、そこで「西成ライオットエール」を飲んだんです。それでクラフトビールづくりに関心を持ちました。後日、代表の山﨑さんがMBSの「住人十色~家の数だけある 家族のカタチ」に出演されてたのをテレビで観たんですよね。「こんな会社がやってるんやなあ」って思って。その時は福祉の会社だということはよくわかってなかったんですけど。

藤田さん 前職って何をされていたんですか?

塩﨑さん 染色の会社にいたんですよ。その前はマネキンとか店舗の什器を取り扱う会社にいたりして、けっこう職種を変えながらここまできました。藤田さんは以前も介護でしたか?

藤田さん そうですね。わたしはずっと介護分野です。もう20年近くになるかな……。シクロという会社自体は、転職エージェントさんに探してもらったんですけど。じつはわたし、面接を2回受けてまして。

塩﨑さん そうなんですか。

藤田さん 1回目の時は、山﨑社長に面接までしてもらったんですけど、前職でどうしても退職できない状況になって流れてしまったんですよ。「残念やな〜」っていう気持ちをずっと持ってたんです。その後、1年半くらい経ったタイミングで再び転職できるチャンスが回ってきて、ありがたく採用していただいたんですよね。

塩﨑さん じゃあ、ずっと働きたいと思ってたんですね。

藤田さん そうなんです。前職は訪問介護だけの会社だったので、シクロのような、介護だけじゃなく訪問もあるし自立支援もあるし、立体的な介護サービスが提供できるっていうところがすごく魅力的だったんですよね。それに、多事業所との連携って法人が違うとものすごく大変なんですが、シクロはいろんな事業がひとつの会社でおこなっているのでコミュニケーションも取りやすい。すごくやりがいがありますよ。

塩﨑さん 私はまだ仕事を覚えるのに必死でそこまで至れていないんですが、ビール製造に関わるのはやりがいがありますね。もちろん醸造の部分は醸造家の方がされるんですけど。タンクの洗浄なんかはおいしいビールをつくるキモで、かなり重いので集中もいる作業ですね。

藤田さん 塩﨑さんって、入社して3ヶ月くらいですもんね。

塩﨑さん そうなんです。業務連絡はSlackを使うじゃないですか。前職はそんなもの使っていなかったので、使いこなすのも大変で。連絡を追うのに必死です(笑)。

藤田さん 慣れてないと大変ですよね。でも、情報伝達がすごく速いので、これも利用者さんのためになる環境のひとつだなって思います。「これみんなが知ってほしい」っていう情報を全員に送ることができるので。

塩﨑さん 山崎さん、めっちゃ見てますよね……。全チャンネル見てる。投稿に対してリアクションがなかったら、「なんでリアクションしないんですか?」って確認の連絡がくる(笑)。

藤田さん すごく鋭い人だなあって思います。だからいろんな事業を並走させられるんだと思いますね。

若い頃の自分と、いまの自分について


藤田さん お若い時ってどんなふうだったんですか?

塩﨑さん 子どものころからずっと音楽が好きで、高校生からはギターを弾くようにもなりましたね。メロディーを出すというよりは、指で弦を弾いて音を出す、ノイジーな音楽というか……。

藤田さん 音楽にどっぷりハマる人って同世代の子よりも知識がすごかったですよね。私は「デュラン・デュラン」とか、映画『フットルース』のサウンドトラックとか聴いていたんですけど、中学生の時ヘビメタ好きの同級生がいて、ラウドネス系の音楽を教えてもらいました。

塩﨑さん 私は高校生くらいかな、インディーズのレコードとかを聴きあさってたんですけど、あまり周りには知らない人が多くて。布教せずに「俺だけしか知らない」って悦に入ってました(笑)。

藤田さん (笑)。

塩﨑さん 小学生の時、親の仕事の都合で名古屋の方に引っ越したんですが、ちょっといじめられてた時期があったんですよね。顔に火傷の痕があるんですけど、それを隠したくて髪を伸ばしていたので「女や」ってからかわれたりして……。言葉の違いなんかもあって、標的にされやすかったんでしょうね。

藤田さん 子どもって本当に残酷なところがありますよね。大阪にはいつ戻ってこられたんですか?

塩﨑さん 高校ですね。戻ってきてからは音楽の趣味が合う友達もできて、一緒にライブハウス行ったりレコード貸し借りしたり、コンプレックスよりも自分の好きなことに人と没頭しあえる時間が増えたので、そういうことはなくなりましたけど。藤田さんは若い頃の苦い経験ってありますか?

藤田さん 自分の性格が原因だったんですけど……。「根性なし」というか、とにかくしんどいことが嫌いだったんですよね。世の中には避けたほうがいいこともありますが、当時の自分は避けてはいけないことも避けようとしていた。そんなんだから向上心や成長心が育たなくて、仕事もおもしろくなくなって、なんというか……つまらない人間だったなって思いますね。

塩﨑さん 何がきっかけで介護の道に入られたんですか?僕達の若い頃って、まだそんなに「介護職」という職種はメジャーじゃなかったですよね。

藤田さん 私が30歳になる手前に「介護保険法」が制定されたんですよ。2000年くらいかな。当時、理学療法士の知り合いに「介護はこれからニーズ高くなってくるよ」って言われて、この仕事に興味を持ったんです。ただ、介護職に就くには資格がいるんやなということがわかって。

塩﨑さん はいはい。

藤田さん それで1年間、仕事をしながら専門学校に通って社会福祉士の国家資格を取りました。はじめての職種はデイサービスでしたね。そこからずっと介護です。つまらない人間だったなと20代を振り返って思いますが、30代にこの仕事に出会えたのは転機でしたね。

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